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  <title>トルクメニスタン・ニュース[資料編]</title>
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/" />
  <modified>2007-07-19T12:06:04Z</modified>
  <tagline>トルクメニスタン・ニュースの資料編。現況ならびに歴史をまとめていきます。</tagline>
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  <copyright>Copyright (c) 2005, matsunaga</copyright>
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    <title>オグズ族からトルクメン共和国成立までの歴史</title>
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    <modified>2007-07-19T12:06:04Z</modified>
    <issued>2005-06-16T22:19:00+09:00</issued>
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    <created>2005-06-16T13:19:00Z</created>
    <summary type="text/plain">　他の中央アジアの共和国と同様、トルクメニスタンはいくつかの外国勢力の侵入と支配...</summary>
    <author>
      <name>matsunaga</name>
      
      <email>matsunaga@kotonoha.or.tv</email>
    </author>
    <dc:subject>history</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://turkmenistan.kotono8.com/data/">
      <![CDATA[<p >　他の中央アジアの共和国と同様、トルクメニスタンはいくつかの外国勢力の侵入と支配を経てきた。そして近代には、ロシア、次いでソヴィエトの支配下に入った。最も特徴的なのはモンゴルとウズベク汗国で、ウズベクは19世紀末にロシアの侵略が始まるまで土着のオグズ族を支配し続けた。</p>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#t_p1" id="t_p1" >&#9632;</a>起源と古い歴史</h3>
<p >　定住オグズ族がモンゴルから今の中央アジアに移動してきたのは８世紀ごろのことだ。数世紀のうちに、いくつかの部族がトルクメン人の民族的起訴となっていった。</p>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#t_p2" id="t_p2" >&#9632;</a>オグズとトルクメン</h3>
<p >　トルクメン人の起源は、現在のモンゴルから現在の南シベリア、バイカル湖畔に中世初期に住んでいた遊牧・牧畜民族のオグズ同盟にさかのぼることができよう。９オグズ（トクズ・オグズ＝九姓鉄勒）として知られるこの同盟は、トルコ語を話す民族で構成され、内陸アジアに強力なステップ帝国の土台を築いた。8世紀後半、９オグズはジュンガル盆地を経て中央アジアに移動した。そしてアラブの資料によれば、８世紀、シルダリア河中下流域地域にグズ（Guzz）という名前で定住した。10世紀までにオグズはアラル海の西と北に広がり、現在のカザフスタンのステップにも展開して、イラン人のみならずキプチャクやカルルクといった民族言語グループのトルコ人も吸収していった。11世紀、有名なイスラム教のトルコ人学者マフムド・アルカシュガリ（Mahmud al-Kashgari）は、オグズとトルクメンの言葉が他のトルコ語と異なっているとし、22のオグズ部族・副部族を記した。そのいくつかは後のトルクメンの系譜と伝説に初期トルクメンの中枢として登場する。</p>
<p >　軍事侵攻によるオグズの拡大は、少なくともボルガ川とウラル山脈までは及んだ。しかし、その支配の地理的境界は、アラル海から北・西へ広がるステップの中で行ったり来たりしていた。アラブの地理学者や旅行者の記述によれば、オグズ民族は全体を束ねる権力者がおらず、数人の「王」と「部族長」がいたという。方針がそれぞれ食い違っており、また領域が広いため、オグズ族はめったに共同行動をとらなかった。そのため、10世紀末までに、同盟のきずなはゆるみ始めていた。そのころ、セルジュクという部族の長が王朝を創始し、南方、現在のトルクメニスタンとイランに移住したオグズの部族を中心にして、セルジュクの名を持つ帝国を打ち立てた。セルジュク帝国はペルシアに中心を置き、そこからオグズ集団はアゼルバイジャンやアナトリア（小アジア、今のトルコ）へと広がった。</p>
<p >　トルクメンという名前が最初に文献に現われるのは、10世紀、南部セルジュク領内へ移動してイスラム教を受け入れたオグズ族を、他のステップに残った部族と区別するために呼んだものである。次第に、その用語は一つの集団を特定するものとなった。もっぱらイスラム教徒オグズ、特にシルダリヤ盆地から離れて住むようになった者たちを指すようになったのだ。13世紀までに、トルクメンという用語は完全にオグズという名称と取って代わってしまった。トルクメンという言葉の起源ははっきりしない。11世紀頃広まっていた語源説では、「トルコ」にイランの言葉manandを加えたものが語源で、「トルコに似ている」を意味するという。一方で現代の学者は「man/men」が強意語として働いていると考え、「純粋なトルコ」とか「最もトルコらしいトルコ」と訳している。</p>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#t_p3" id="t_p3" >&#9632;</a>セルジュク時代</h3>
<p >　11世紀、セルジュク領はアムダリヤ三角州からイラン、イラク、コーカサス地域、シリア、小アジアへと広がっていた。1055年、セルジュク軍はバグダッドに入り、イスラムの中枢地域の支配者となって、イスラム教会の重要な後援者となった。最後の強力なセルジュクの支配者スルタン・サンジャル（1157年没）は、トルクメンその他の部族による攻撃のために帝国が分裂・崩壊していくのを目の当たりにした。</p>
<p >　これらの反乱まで、トルクメン族はセルジュク軍の必要不可欠な一部であった。トルクメン人は家族・財産とともに移住してアゼルバイジャンやアナトリアへのセルジュク侵攻に従軍し、それらの地域のトルコ化のプロセスが始まることとなった。この間、トルクメンは現在のトルクメニスタン地域にも定住し始めた。トルクメン人が住む前には、この砂漠のほとんどは無人で、それより住むのに適したカスピ海、コペトダグ山脈、アムダリヤ河、ムルガプ河沿いの地域は主にイラン人が先住していた。メルヴ（Merv）は特に巨大な定住農耕地域であり、地域の経済・文化の中心地であるとともに、有名なシルクロードの通過点としても重要であった。</p>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#t_p4" id="t_p4" >&#9632;</a>トルクメン国家の形成</h3>
<p >　13世紀、中央アジアをモンゴルが征服した期間、ステップのトルクメン・オグズはシルダリアから押し出されてガラグム（ロシア綴りでカラクム）砂漠とカスピ海沿岸へと押し出された。東欧、中央アジア、イランではさまざまな民族がモンゴルの名のもとに従属することとなった。16世紀はじめまで、それは四つの地域に別れていた。カスピ海南東沿岸、マングイシュラク半島（カスピ海北東沿岸）、バルカン山脈周辺、そしてトルクメニスタン北部中央を流れるウズボイ川沿岸である。多くの学者は、14世紀から16世紀にかけての時代をトルクメンが今日存在する部族集団として再編成された期間とみなしている。16世紀に始まり、19世紀まで引き続いて、大部族集団と個々のグループが東と南東へ移住していった。</p>
<p >　歴史的な情報源によれば、大部族連合が存在していたことは、マングイシュラク半島とあるカン山脈の周辺地域のサロル（Salor）同盟として述べられている。サロルは現代まで残った少数の原オグズ部族の一つである。17世紀末に連合は分裂し、三つの上級部族が東、後に南に移動した。ヨムド（Yomud）は東と西のグループに分裂した。テケ（Teke）はコペトダグ山脈沿いのアカル地域に移動し、次第にムルガプ川流域へと移っていった。サロル族はアラル海の南のホラズム・オアシス内のアムダリヤ三角州周辺地域、アラル海南東のアムダリヤ中流域、現在のアシュガバット北部のアハル・オアシスとイランとの国境のコペトダグ沿いの地域、現在のトルクメニスタン南東にあるムルガプ川へと移住していった。サロル族はトルコ、アフガニスタン、ウズベキスタン、中国にも住んでいる。</p>
<p >　16～19世紀のトルクメンについてわかっていることは大半が、ウズベクとペルシアの年代記からのもので、そこにはトルクメン人の襲撃と、定住民である隣人の政治問題との関わりについてが記録されている。16世紀以来、トルクメンの部族の大半は二つのウズベク公国に分裂した。ヒヴァ・ハン国（ホラズムの下アムダリヤ沿いを中心とする）とブハラ・ハン国である。ウズベクの両ハン国のハンや王子たちは慣例的に、ハン国内・ハン国間の紛争やペルシアへの出征などにおいてトルクメンの軍事的支援を得ていた。そのため、多くのトルクメンの部族はハン国の首都近くに移住した。そして、軍事力についてはトルクメンに大きく依存するようになったのである。周辺定住民問題におけるトルクメンの影響力は18世紀に最高になった。この時期の何度かの機会（1743、1767～70）に、ヨムド族はホラズムを侵略して支配した。1855～1867年、ヨムド族による何度かの反乱がその地域を揺るがした。これらの戦争とウズベク政権による反撃によって、東ヨムド集団は広範囲に分散することとなった。</p>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#t_p5" id="t_p5" >&#9632;</a>ロシアへの併合</h3>
<p >　19世紀後半、ロシア派トルクメン領土を侵略しようとし始めた。中央アジアの民族の中でも、トルクメンはロシアの拡大に対して最も激しい抵抗を示した。1869年、ロシア帝国はクラスノヴォツク（今のトルクメンバシュ）カスピ海の港を建設して、現在のトルクメニスタンへの足がかりを得た。そこから、また別の場所から、ロシアは進軍し続け、1873年にヒヴァ・ハン国を征服した。トルクメンの部族、特にヨムド族はヒヴァ・ハン国の軍隊に所属していたため、ロシア軍はホラズムのトルクメン人に対して報復の襲撃を加え、その過程で数百人を虐殺し、定住地を破壊した。1881年、ミハイル・スコベレフ（Mikhail Skobelev）将軍率いるロシア軍は、トルクメンの最後の砦の一つでアシュガバット北西にあるゴクデペを包囲・陥落させた。トルクメンの敗北（これはトルクメンでは国民の哀悼の日、国家の誇りの象徴として記念されている）で、現在トルクメニスタンとよばれているものの併合には、ほとんど抵抗がなくなった。同年、ロシア派ペルシアとの条約に調印した。そのときの国境線は、今もトルクメニスタンとイランの国境として残っている。1897年、似たような条約がロシアとアフガニスタンの間で締結された。</p>
<p >　ロシア併合後、この地域はトランスカスピ海地域として統治され、軍人ならびにグベルニヤ（地方長官）に任命された役人による不正と悪事を被ることとなった。1880年代、鉄道線がクラスノヴォツクからアシュガバットまで引かれ、後にそれはタシケントまで延長された。都市領域は鉄道に沿って拡大し始めた。トランスカスピ海地域は基本的にはロシア植民地であったが、辺境のままであり続けた。ただし、英国植民地主義がこの地域に関心を示したとき、そしてトルクメン人による反乱の可能性があるときだけはロシアも注意を払った。</p>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#t_p6" id="t_p6" >&#9632;</a>ソビエト・トルクメニスタン</h3>
<p >　トルクメンは1917年にソヴィエト支配の到来に対して基本的に無関心であったため、それから数年間、この地域ではほとんど革命運動が起こらなかった。しかし、革命直前数年間、ロシア支配に対する散発的なトルクメン人の反乱が目立っていた。最も大規模な1916年の反ツァーリ反乱はトルクメニスタン全土に広がっていた。ソヴィエト支配に対する武力抵抗は、1920年代から1930年代前半にかけて中央アジア全体に広がったバスマチ（Basmachi）の反乱の一部であった。ソビエト史料はこの闘争を共和国の歴史の中ではごく簡単にしか記していないが、このときの反対はすさまじく、トルクメン人が多数亡くなっている。</p>
<p >　1924年10月、中央アジアが別々の政体に分割され、トランスカスピ海地域とトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国トルクメン州は、トルクメン・ソヴィエト社会主義共和国となった。ソヴィエトの最初数十年におよぶ強制的集産化その他の極端な社会経済的な変化の間に、牧畜遊牧民という生き方はトルクメニスタンにおいて経済的に選ぶことができなくなり、1930年代末までにトルクメニスタンの大多数は定住民となった。伝統的なトルクメン生活様式をむしばむソヴィエト国家による努力によって、家族や政治関係、宗教・文化的習慣、知的発展には大きな変化が生まれた。ロシアその他のスラブ人、主にカフカスからの様々な民族が大量に都市地域に移住してきた。控えめな産業的な開発が行なわれ、トルクメニスタンの天然資源の活用は限定的に始まった。</p>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#t_p7" id="t_p7" >&#9632;</a>主権と独立</h3>
<p >　1930年代初め、モスクワは共和国を強固な統制下に置いていた。ソ連共産党の民族政策によってトルクメンには政治エリートが育ち、ロシア化を進めることとなった。スラブ人はモスクワとトルクメニスタンで厳しく政府官僚の幹部を監督した。トルクメン指導部は忠実にソヴィエトの政策に従うのが常であった。モスクワはこの共和国におけるほぼすべての政治活動を掌握しており、1980年代半ばの汚職スキャンダルを除けば、トルクメニスタンは波風の立たないソヴィエト共和国であった。ミハイル・Ｓ・ゴルバチョフのグラスノスチとペレストロイカ政策は、トルクメニスタンには重要な影響を与えなかった。共和国は1991年以降のソ連崩壊と独立のための準備が整っていなかった。</p>
<p >　ソ連を構成していた他の共和国が1988年から1989年に主権を主張し始めたとき、トルクメニスタン指導部も、モスクワの経済政策・政治政策が搾取的でトルクメニスタンの幸福と尊厳に対して有害である、と批判し始めた。最高ソヴィエトの満場一致の議決で、トルクメニスタンは1990年8月に主権を宣言した。ゴルバチョフ政権に対する1991年8月のモスクワでのクーデター計画の後、トルクメニスタン共産党指導者サパルムラト・ニヤゾフは独立に関する国民投票を行なうこととした。国民投票の結果は独立を求める声が94％に達した。共和国最高ソヴィエトは、トルクメニスタンがソ連から独立すると宣言する以外に選択の余地はなくなり、1991年10月27日、トルクメニスタン共和国が成立した。</p>]]>
      <![CDATA[<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/country-studies.html#m_p1" id="m_p1" >&#9632;</a>出典</h3>
<ul >
<li ><a href="http://countrystudies.us/turkmenistan/" target="_blank">Country Studies : Turkmenistan</a>……アメリカ国会図書館連邦研究部が、合衆国陸軍省の後援で1986年から1998年にかけて発行した諸国研究・地域ハンドブックシリーズより。</li>
</ul>]]>
    </content>
  </entry>
  <entry>
    <title>トルクメニスタン年表(BBC)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/chronology.html" />
    <modified>2006-12-09T16:59:28Z</modified>
    <issued>2005-06-07T15:22:42+09:00</issued>
    <id>tag:turkmenistan.kotono8.com,2005:/data//3.1282</id>
    <created>2005-06-07T06:22:42Z</created>
    <summary type="text/plain"> 紀元前6世紀　現在のトルクメニスタン地域は、キュロス大王のペルシア帝国の一部を...</summary>
    <author>
      <name>matsunaga</name>
      
      <email>matsunaga@kotonoha.or.tv</email>
    </author>
    <dc:subject>history</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://turkmenistan.kotono8.com/data/">
      <![CDATA[<ul >
<li >紀元前6世紀　現在のトルクメニスタン地域は、キュロス大王のペルシア帝国の一部を構成していた。</li>
<li >紀元前4世紀　マケドニアのアレクサンドロス大王がトルクメニスタンを含む中央アジアを征服。</li>
<li >紀元7世紀　アラブ人がトルクメニスタンを含む中央アジアを征服し、イスラム教を伝える。</li>
<li >10～13世紀　遊牧民族オグズ・セルジュク族（現在のトルクメン人の祖先）とモンゴルが北東から侵入。チンギス・ハーンはトルクメニスタンを含むこの地域を制服。</li>
<li >15～17世紀　トルクメニスタン南部はペルシアの支配下となり、北部はウズベク人の支配するヒヴァ汗国とブハラ汗国によって統治される。 </li>
</ul>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/chronology.html#t_p1" id="t_p1" >&#9632;</a>ロシア統治</h3>
<ul >
<li >1881　現在のトルクメニスタン地域は、15万人のトルクメニスタン人が戦没したGok Tepeの戦いの後、ロシア・トルキスタンに編入。</li>
<li >1916　トルクメンは、ロシア徴兵令に対する反乱に、他の中央アジアとともに参加。</li>
<li >1918～21　ロシア革命時、トルクメンはボルシェビキ軍と戦う。</li>
<li >1921　トルクメニスタンはトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国（ASSR）の一部となる。 </li>
<li >1925　トルクメニスタンはソヴィエト連邦における完全な共和国となる。</li>
<li >1920年代～1930年代　ソヴィエトの農業集産化・宗教分離に対して、散発的な武装抵抗、恒常的な反乱。</li>
<li >1948　10万人以上が亡くなるアシュガバット大地震。 </li>
<li >1960～67　レーニン・カラクム運河の完成後、トルクメンの綿生産高が劇的に上昇。</li>
<li >1985　1971年からのムハンマド・ガプソフ（Muhammad Gapusov）に代わって、サパルムラト・ニヤゾフ（Saparmyrat Niyazov）がトルクメン共産党指導者に決定。</li>
<li >1989　トルクメン知識人がアグズビルリク（Agzybirlik）人民戦線を立ち上げるが、翌年、トルクメン共産党によって禁止される。</li>
</ul>
<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/history/chronology.html#t_p2" id="t_p2" >&#9632;</a>独立</h3>
<ul >
<li >1990　トルクメン国会（最高ソヴィエト）は経済的・政治的主権を宣言。その議長ニヤゾフ氏を大統領として選出。</li>
<li >1991　ニヤゾフ氏はソヴィエト指導者ミハイル・ゴルバチョフに対するクーデター未遂を支援するが、ソ連崩壊直前に独立を宣言。CIS（独立国家共同体）に加入。</li>
<li >1992　トルクメニスタンは、大統領を政府代表・国家元首とし、さらにいつでも首相を任命する選択権を有するという新憲法を採択。ニヤゾフ大統領は、対立候補なく直接国民選挙で再選。</li>
<li >1993　トルクメニスタンは国家通貨としてマナト（manat）を導入。慎重な経済改革計画を開始し、石油・ガス埋蔵における海外投資を招く。</li>
<li >1994　選挙の必要なく2002年までニヤゾフ大統領の任期を延長すること尾を国民投票で承認。 </li>
<li >1997　トルクメニスタンは土地私有を合法化。 </li>
<li >1998　イランへの天然ガスパイプライン開設。</li>
<li >1999　国会はニヤゾフを終身大統領に選出。 死刑廃止。</li>
<li >2000　ニヤゾフは、70歳になる2010年までには引退すると発表。</li>
<li >2000　ニヤゾフ大統領は、2000平方キロの人工湖をカラクム砂漠に作る計画を発表。 人工湖は給水を確保することが目的だが、科学者は地域の環境破壊を警告している。 </li>
<li >2002年8月　ニヤゾフ大統領は月の名前を自分・母親ならびに精神的なガイドブックである「ルーフナーマ」に基づいて改名。 </li>
<li >2002年11月　ニヤゾフ大統領は首都における自動車パレードで発砲されたが無傷。 当局は、犯人が追放された野党党首に雇われた「傭兵」であると非難したが、野党党首は逆にニヤゾフが弾圧のための口実だと反論。 野党活動家と元外務大臣ボリス・シクムラドフ（Boris Shikhmuradov）がまもなく逮捕されて首謀者として告発され、終身刑を宣告された。 他に40人が有罪判決を受けて刑務所に入った。 </li>
<li >2003年4月　ニヤゾフ大統領、モスクワ訪問。 ロシア・ガズプロムが毎年600億立方メートルのガスをトルクメニスタンから購入する契約に調印。 </li>
<li >ニヤゾフ大統領令でロシアとの1993年二重国籍協定が廃止され、モスクワとの間に外交問題を引き起こす。 </li>
<li >2004年8月　ニヤゾフ大統領、トルクメンの砂漠に巨大な氷宮殿建設を命じる。 </li>
<li >2004年11月　トルクメンとウズベクの大統領は友好宣言、水資源条約に調印。 </li>
<li >2005年2月　ニヤゾフ大統領が目の手術。 首都以外の病院を閉鎖することを提案。 </li>
<li >2005年5月　エネルギー部門最高責任者であったエリー・グルバンムラドフ副首相が横領疑惑で解雇・逮捕。</li>
</ul>
<p >（出典：<a href="http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/country_profiles/1298522.stm" target="_blank">BBC NEWS | World | Asia-Pacific | Country profiles | Timeline: Turkmenistan</a> 2005年5月22日版より）</p>]]>
      
    </content>
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  <entry>
    <title>サパルムラト・ニヤゾフ（wikipedia版）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/niyazov/wikipedia.html" />
    <modified>2006-12-09T16:59:28Z</modified>
    <issued>2005-06-07T13:46:34+09:00</issued>
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    <created>2005-06-07T04:46:34Z</created>
    <summary type="text/plain"> Saparmurat Niyazov - Wikipedia, the fre...</summary>
    <author>
      <name>matsunaga</name>
      
      <email>matsunaga@kotonoha.or.tv</email>
    </author>
    <dc:subject>niyazov</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://turkmenistan.kotono8.com/data/">
      <![CDATA[<ul >
<li ><a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Saparmurat_Niyazov" target="_blank">Saparmurat Niyazov - Wikipedia, the free encyclopedia</a>の訳。日本語版は<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%82%BE%E3%83%95" target="_blank">サパルムラト・ニヤゾフ - Wikipedia</a>にあるが、充実していない。</li>
</ul>
<p >　Saparmurat Atayevich Niyazov ［サパルムラト・ニヤゾフ]（トルクメン語でSaparmyrat Nyýazow）</p>
<p >　1940年2月19日生まれ。1985年以来、トルクメニスタンで最も強力な人物。</p>
<p >　幼くして孤児となり、父親は第２次世界大戦でドイツと戦って死亡。残りの家族も1948年、アシュガバットを廃墟にした大地震で亡くなった。ソビエトの孤児院で育てられ、共産党に入って昇格していき、ついにトルクメン・ソヴィエト社会主義共和国共産党（後のトルクメン民主党）議長となった。ソ連崩壊後、1991年の独立宣言でも国家権力を握り続け、初代大統領となった。</p>
<p >　1993年10月22日にトルクメンバシ（Turkmenbashi / Türkmenbaşy）を自称した。これは「トルクメン族すべてのリーダー」という意味で、ケマル・アタテュルクが「トルコの父」という称号であるのにならったものである。1999年12月29日、単なる認証機関となっていた国会によって、終身大統領と決定された。</p>
<p >　ニヤゾフは独裁的指導者であり、強力な個人崇拝で知られている。トルクメニスタンは国家アイデンティティーを欠いた国であると考えて、自らのイメージによって国家を再建しようと試みた。カスピ海沿岸のクラスノフォトスクの街を自分にちなんでトルクメンバシと改名し、そのほか、いくつかの学校、空港、隕石を自分とその家族にちなんで命名し直した。すべてのマナト紙幣に大統領の肖像が描かれており、大統領の巨大な肖像画は国中至るところに、特に主要な公共の建物や通りに掲げられている。また、大統領とその母親の像がトルクメニスタン全域に建てられている。カラクム砂漠のど真ん中にも像は建てラテイル。またアシュガバット最大の建物「中立アーチ」の頂上の金メッキされた像は、太陽に方向に向けて回転する。ニヤゾフはその統治を記念してアシュガバットに巨大な宮殿を造らせた。「個人的には通りで自分の肖像や像を見るのには反対です――でもそれは人々が求めているものです」とニヤゾフは語っている。</p>
<p >　教育システムでは、トルクメンの若者に対してニヤゾフを愛するよう教え込んでいる。ニヤゾフの作品や演説が教科書の内容の大半を占めている。主要なテキストはニヤゾフによって書かれた国家的叙事詩「ルーフマーナ（魂の書）」である。この書物は修正主義的歴史と道徳的ガイドラインの入り交じったもので、「国家の精神的指導」ならびに国家の芸術・文学の基礎となるよう意図されたものだ。ソヴィエト時代の教科書は禁止されたが新しい出版物がその代わりに出ることもなく、図書館にはニヤゾフの作品以外はほとんど何も残っていない。2004年、地方在住のトルクメン人は図書館で本を読まないだろうという理由で、大統領はすべての地方図書館の閉鎖を命じた。ニヤゾフの故郷キプチャク村では、その母のための記念の建物が建造されている。そこにはトルクメン人の再生のシンボルとされるモスク（約1億ドル）もある。この大検造物の壁は、コーランの詩句とともにルーフナマからの訓辞が書かれている。</p>
<p >　トルクメン文化を変えようというニヤゾフの努力としてはほかに、キリル文字にかわってラテン文字に基づく新しいトルクメン・アルファベットを導入したり、人生の段階を定義したり、国家英雄や象徴に基づいて月・日を改名したりしたことなどがある。1月はトルクメンバシと改名され、４月は母親にちなんだ名前となっている。長髪、ひげ、金歯を禁止しました。</p>
<p >　国会で終身大統領に任命されたが、2010年には選挙を開くことを約束している。ニヤゾフは因習にとらわれない政策でも有名だ。たとえば、2004年8月、砂漠の国のど真ん中に巨大な氷の宮殿を建築するように命じた。多くの評論家は技術的な援助なくしてそれは不可能な夢であろうと言ったのだが。また、２つの法令を発した。その一つは、テレビのニュース司会者はメーキャップすることを禁止するものである。大統領がニュースアナウンサーを男性か女性か区別できなかったためだ。第二の法令は、トルクメン領で噛みタバコを噛むことが違法というものである（ニヤゾフは、抗ガン手術に成功した後、禁煙しなければならなかったので）。</p>
<p >　2004年、ニヤゾフは1万5000人の医療従事者を解雇し、軍の徴兵で置き換えた。この行動については、2005年3月1日、アシュガバットの外にあるすべての病院の閉鎖命令が続いた。2005年2月28日、ニヤゾフは宣言した。「首都で働くべき優れた医療専門家を、どうして田舎に埋もれさせておくべきだろうか？」</p>
<p >　2002年11月25日の暗殺計画の後、トルクメン当局は多数の共謀した容疑者とその家族を逮捕した。これは国内外の政治的反対を弾圧するために計画されたものだ、と述べる評論家もいる。</p>
<p >　2004年夏、ニヤゾフを打倒して裁判にかけろと主張するビラ運動が首都アシガバットで展開された。当局は運動を止めることができず、大統領は内務大臣と警察学校校長を解雇すると国営テレビで返答した。無能だったとして大臣を非難し、「優れた長所を持つとか、犯罪と戦うために尽くしたと言うことができない」と宣言した。</p>]]>
      
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    <title>トルクメニスタン概要（BBC）</title>
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    <modified>2006-12-09T16:59:28Z</modified>
    <issued>2005-06-07T06:43:46+09:00</issued>
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    <summary type="text/plain">&amp;#9632;国家概要：トルクメニスタン 　トルクメニスタンはほとんどが砂漠で、...</summary>
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      <name>matsunaga</name>
      
      <email>matsunaga@kotonoha.or.tv</email>
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    <dc:subject>country</dc:subject>
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      <![CDATA[<h3 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/country/country-profile-bbc.html#t_p1" id="t_p1" >&#9632;</a>国家概要：トルクメニスタン</h3>
<p >　トルクメニスタンはほとんどが砂漠で、中央アジアの旧ソ連５カ国の中で人口が最も少ない。</p>
<p >　世界第五位の天然ガス埋蔵があり、相当量の石油埋蔵がある。</p>
<p >　それでもまだ貧困状態にあり、1991年にソ連から独立して以来、世界に対しては閉ざされてきた。</p>
<h4 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/country/country-profile-bbc.html#t_p1_1" id="t_p1_1" >&#9632;</a>概観</h4>
<p >　トルクメニスタンは中央アジア諸国の中で民族的に最も単一化している国で、人口の大多数はトルクメン人である。ウズベク人、ロシア人と、ごく少数のカザフ人、タタール人、ウクライナ人、アゼルバイジャン人、アルメニア人がいる。元ソヴィエトの他の国々と比べて、民族紛争はほとんどみられなかった。しかし、強固な部族のきずなは緊張のもととなっている。</p>
<p >　実質的に一党独裁国家である。トルクメニスタン民主党は、ほとんど元共産党であるが、ほとんど野党の反対にあわない。独立したメディアは存在しない。実権はサパルムラト・ニヤゾフ大統領の手中に集中している。大統領は中央アジアで比類のない個人崇拝を打ち立てた。</p>
<p >　トルクメニスタンは、輸出ルートがなかったこと、また、油井が見つかるはずの海域の法的地位についてのカスピ海沿岸諸国間の論争があったことから、石油・ガス埋蔵からの利益をこれまで得ることができなかった。外国投資家がしりごみしているため、経済は低開発のままである。</p>
<h4 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/country/country-profile-bbc.html#t_p1_2" id="t_p1_2" >&#9632;</a>実情</h4>
<ul >
<li >人口：500万（国連、2005）</li>
<li >首都：アシュガバット</li>
<li >区域：48万8100km2</li>
<li >主要言語：トルクメン語、ロシア語</li>
<li >主要宗教：イスラム教</li>
<li >平均寿命：64年（男）、70年（女）（国連）</li>
<li >貨幣単位：1トルクメン・マナト（manat）＝100テンゲ（tenge）</li>
<li >主要輸出品：石油、ガス、織物、生綿</li>
<li >一人あたりGNI：1120米ドル（世界銀行、2003）</li>
<li >インターネットドメイン： .tm</li>
<li >国際電話番号：+993</li>
</ul>
<h4 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/country/country-profile-bbc.html#t_p1_3" id="t_p1_3" >&#9632;</a>指導者</h4>
<p >　大統領：サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ（Saparmyrat Atayevich Niyazov）</p>
<p >　1940年生まれ。サパルムラト・ニヤゾフは1985年にトルクメン共産党代表となった。1991年、トルクメニスタン独立後最初の大統領に選ばれた。1999年、国会であるメジリスは「終身大統領」と決定した。</p>
<p >　2005年4月、大統領選挙を2009年に行なうように要請したことで、多くの観察者を驚かせた。</p>
<p >　ニヤゾフは1997年に大きな心臓手術を受け、その後、すべての閣僚に自分と同じように公共の場で禁煙するよう命じた。ニヤゾフが手術後にはげ始めたとき、中国の漢方治療を行なった。それは、はげの指導者を持つという「不愉快さ」を国民が感じなくていいように、ということだそうだ。</p>
<p >　ニヤゾフは国内では目立った反対を受けていない。2004年12月の選挙のすべての候補者は彼の支持者であった。</p>
<p >　追放されたトルクメン野党メンバーは、元外務大臣ボリス・シクムラドフを含めて2002年にウィーンに集まり、トルクメン民主野党を結成すると発表した。彼らはトルクメン当局を人権侵害で告発した。</p>
<p >　それに続いて11月、アシュガバットで車に乗ったニヤゾフの狙撃事件があった。大統領は無傷で、暗殺計画は失敗したと述べた。そして、追放された野党に命じられた傭兵が実行したと告発した。しかし、野党側は、弾圧の口実のために事件を自演したのだとして大統領を非難した。数週間のうちにシクムラドフは逮捕され、陰謀の首謀者として告発され、終身刑を宣告された。46人が関係したとして有罪宜告を受けた。</p>
<ul >
<li >首相：サパルムラト・ニヤゾフ </li>
<li >外務大臣：ラシト・メレドフ（Rashit Meredov） </li>
<li >経済財務大臣：アマンドゥルドゥ・ムラトグルイェフ（Amandurdy Myratgulyyew）</li>
</ul>
<h4 ><a href="http://turkmenistan.kotono8.com/data/country/country-profile-bbc.html#t_p1_4" id="t_p1_4" >&#9632;</a>メディア</h4>
<p >　トルクメン政府はメディアを絶対的に独占している。当局は放送局をモニターし、印刷機を操作し、編集方針を定める。</p>
<p >　ヨーロッパの安全保障・協力組織は2002年、この国の報道の自由のなさは歴史上「前例のないもの」であると報告した。</p>
<p >　パリの「国境なき記者団（RSF）」は、ニヤゾフ大統領のはメディアをただ「自分の栄光をプロモーションする」ためだけに使っている、と述べた。</p>
<p >　カナダの「国際表現自由交流（ International Freedom of Expression exchange forum）」によれば、トルクメニスタンは「世界でメディア環境が最悪」という。</p>
<p >　ロシアテレビ局からの番組は再放送前に検閲がある。トルクメンテレコム（Turkmentelecom）その他の国家通信機関はインターネット・アクセスをコントロールしている。</p>
<ul >
<li >報道機関</li>
<ul >
<li >Neytralnyy Turkmenistan：ロシア語、週６回発行</li>
<li >Turkmenistan：トルクメン語新聞、週６回発行</li>
<li >Watan：トルクメン語新聞、週３回発行</li>
<li >Galkynys：トルクメン語週刊誌、トルクメニスタン民主党機関誌</li>
<li >Turkmen Dunyasi：トルクメン語月刊誌、アシュガバットの世界トルクメン協会機関誌</li>
<li >Adalat（正義）：トルクメン</li>
<li >Edebiyat we Sungat（文学と芸術）：トルクメン</li>
</ul>
<li >テレビ</li>
<ul >
<li >Turkmen TV：国有、４チャンネル</li>
</ul>
<li >ラジオ</li>
<ul >
<li >Turkmen radio：国有、２つのステーション通信社</li>
</ul>
<li >Turkmen State News Service（TSNS）：トルクメン国家通信局＝政府報道局</li>
</ul>
<p >（出典：<a href="http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/country_profiles/1298497.stm" target="_blank">BBC NEWS | World | Asia-Pacific | Country profiles | Country profile: Turkmenistan</a>　2005年5月22日更新版より）</p>]]>
      
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