トルクメニスタン・ニュース[資料編]

オグズ族からトルクメン共和国成立までの歴史

 他の中央アジアの共和国と同様、トルクメニスタンはいくつかの外国勢力の侵入と支配を経てきた。そして近代には、ロシア、次いでソヴィエトの支配下に入った。最も特徴的なのはモンゴルとウズベク汗国で、ウズベクは19世紀末にロシアの侵略が始まるまで土着のオグズ族を支配し続けた。

起源と古い歴史

 定住オグズ族がモンゴルから今の中央アジアに移動してきたのは8世紀ごろのことだ。数世紀のうちに、いくつかの部族がトルクメン人の民族的起訴となっていった。

オグズとトルクメン

 トルクメン人の起源は、現在のモンゴルから現在の南シベリア、バイカル湖畔に中世初期に住んでいた遊牧・牧畜民族のオグズ同盟にさかのぼることができよう。9オグズ(トクズ・オグズ=九姓鉄勒)として知られるこの同盟は、トルコ語を話す民族で構成され、内陸アジアに強力なステップ帝国の土台を築いた。8世紀後半、9オグズはジュンガル盆地を経て中央アジアに移動した。そしてアラブの資料によれば、8世紀、シルダリア河中下流域地域にグズ(Guzz)という名前で定住した。10世紀までにオグズはアラル海の西と北に広がり、現在のカザフスタンのステップにも展開して、イラン人のみならずキプチャクやカルルクといった民族言語グループのトルコ人も吸収していった。11世紀、有名なイスラム教のトルコ人学者マフムド・アルカシュガリ(Mahmud al-Kashgari)は、オグズとトルクメンの言葉が他のトルコ語と異なっているとし、22のオグズ部族・副部族を記した。そのいくつかは後のトルクメンの系譜と伝説に初期トルクメンの中枢として登場する。

 軍事侵攻によるオグズの拡大は、少なくともボルガ川とウラル山脈までは及んだ。しかし、その支配の地理的境界は、アラル海から北・西へ広がるステップの中で行ったり来たりしていた。アラブの地理学者や旅行者の記述によれば、オグズ民族は全体を束ねる権力者がおらず、数人の「王」と「部族長」がいたという。方針がそれぞれ食い違っており、また領域が広いため、オグズ族はめったに共同行動をとらなかった。そのため、10世紀末までに、同盟のきずなはゆるみ始めていた。そのころ、セルジュクという部族の長が王朝を創始し、南方、現在のトルクメニスタンとイランに移住したオグズの部族を中心にして、セルジュクの名を持つ帝国を打ち立てた。セルジュク帝国はペルシアに中心を置き、そこからオグズ集団はアゼルバイジャンやアナトリア(小アジア、今のトルコ)へと広がった。

 トルクメンという名前が最初に文献に現われるのは、10世紀、南部セルジュク領内へ移動してイスラム教を受け入れたオグズ族を、他のステップに残った部族と区別するために呼んだものである。次第に、その用語は一つの集団を特定するものとなった。もっぱらイスラム教徒オグズ、特にシルダリヤ盆地から離れて住むようになった者たちを指すようになったのだ。13世紀までに、トルクメンという用語は完全にオグズという名称と取って代わってしまった。トルクメンという言葉の起源ははっきりしない。11世紀頃広まっていた語源説では、「トルコ」にイランの言葉manandを加えたものが語源で、「トルコに似ている」を意味するという。一方で現代の学者は「man/men」が強意語として働いていると考え、「純粋なトルコ」とか「最もトルコらしいトルコ」と訳している。

セルジュク時代

 11世紀、セルジュク領はアムダリヤ三角州からイラン、イラク、コーカサス地域、シリア、小アジアへと広がっていた。1055年、セルジュク軍はバグダッドに入り、イスラムの中枢地域の支配者となって、イスラム教会の重要な後援者となった。最後の強力なセルジュクの支配者スルタン・サンジャル(1157年没)は、トルクメンその他の部族による攻撃のために帝国が分裂・崩壊していくのを目の当たりにした。

 これらの反乱まで、トルクメン族はセルジュク軍の必要不可欠な一部であった。トルクメン人は家族・財産とともに移住してアゼルバイジャンやアナトリアへのセルジュク侵攻に従軍し、それらの地域のトルコ化のプロセスが始まることとなった。この間、トルクメンは現在のトルクメニスタン地域にも定住し始めた。トルクメン人が住む前には、この砂漠のほとんどは無人で、それより住むのに適したカスピ海、コペトダグ山脈、アムダリヤ河、ムルガプ河沿いの地域は主にイラン人が先住していた。メルヴ(Merv)は特に巨大な定住農耕地域であり、地域の経済・文化の中心地であるとともに、有名なシルクロードの通過点としても重要であった。

トルクメン国家の形成

 13世紀、中央アジアをモンゴルが征服した期間、ステップのトルクメン・オグズはシルダリアから押し出されてガラグム(ロシア綴りでカラクム)砂漠とカスピ海沿岸へと押し出された。東欧、中央アジア、イランではさまざまな民族がモンゴルの名のもとに従属することとなった。16世紀はじめまで、それは四つの地域に別れていた。カスピ海南東沿岸、マングイシュラク半島(カスピ海北東沿岸)、バルカン山脈周辺、そしてトルクメニスタン北部中央を流れるウズボイ川沿岸である。多くの学者は、14世紀から16世紀にかけての時代をトルクメンが今日存在する部族集団として再編成された期間とみなしている。16世紀に始まり、19世紀まで引き続いて、大部族集団と個々のグループが東と南東へ移住していった。

 歴史的な情報源によれば、大部族連合が存在していたことは、マングイシュラク半島とあるカン山脈の周辺地域のサロル(Salor)同盟として述べられている。サロルは現代まで残った少数の原オグズ部族の一つである。17世紀末に連合は分裂し、三つの上級部族が東、後に南に移動した。ヨムド(Yomud)は東と西のグループに分裂した。テケ(Teke)はコペトダグ山脈沿いのアカル地域に移動し、次第にムルガプ川流域へと移っていった。サロル族はアラル海の南のホラズム・オアシス内のアムダリヤ三角州周辺地域、アラル海南東のアムダリヤ中流域、現在のアシュガバット北部のアハル・オアシスとイランとの国境のコペトダグ沿いの地域、現在のトルクメニスタン南東にあるムルガプ川へと移住していった。サロル族はトルコ、アフガニスタン、ウズベキスタン、中国にも住んでいる。

 16~19世紀のトルクメンについてわかっていることは大半が、ウズベクとペルシアの年代記からのもので、そこにはトルクメン人の襲撃と、定住民である隣人の政治問題との関わりについてが記録されている。16世紀以来、トルクメンの部族の大半は二つのウズベク公国に分裂した。ヒヴァ・ハン国(ホラズムの下アムダリヤ沿いを中心とする)とブハラ・ハン国である。ウズベクの両ハン国のハンや王子たちは慣例的に、ハン国内・ハン国間の紛争やペルシアへの出征などにおいてトルクメンの軍事的支援を得ていた。そのため、多くのトルクメンの部族はハン国の首都近くに移住した。そして、軍事力についてはトルクメンに大きく依存するようになったのである。周辺定住民問題におけるトルクメンの影響力は18世紀に最高になった。この時期の何度かの機会(1743、1767~70)に、ヨムド族はホラズムを侵略して支配した。1855~1867年、ヨムド族による何度かの反乱がその地域を揺るがした。これらの戦争とウズベク政権による反撃によって、東ヨムド集団は広範囲に分散することとなった。

ロシアへの併合

 19世紀後半、ロシア派トルクメン領土を侵略しようとし始めた。中央アジアの民族の中でも、トルクメンはロシアの拡大に対して最も激しい抵抗を示した。1869年、ロシア帝国はクラスノヴォツク(今のトルクメンバシュ)カスピ海の港を建設して、現在のトルクメニスタンへの足がかりを得た。そこから、また別の場所から、ロシアは進軍し続け、1873年にヒヴァ・ハン国を征服した。トルクメンの部族、特にヨムド族はヒヴァ・ハン国の軍隊に所属していたため、ロシア軍はホラズムのトルクメン人に対して報復の襲撃を加え、その過程で数百人を虐殺し、定住地を破壊した。1881年、ミハイル・スコベレフ(Mikhail Skobelev)将軍率いるロシア軍は、トルクメンの最後の砦の一つでアシュガバット北西にあるゴクデペを包囲・陥落させた。トルクメンの敗北(これはトルクメンでは国民の哀悼の日、国家の誇りの象徴として記念されている)で、現在トルクメニスタンとよばれているものの併合には、ほとんど抵抗がなくなった。同年、ロシア派ペルシアとの条約に調印した。そのときの国境線は、今もトルクメニスタンとイランの国境として残っている。1897年、似たような条約がロシアとアフガニスタンの間で締結された。

 ロシア併合後、この地域はトランスカスピ海地域として統治され、軍人ならびにグベルニヤ(地方長官)に任命された役人による不正と悪事を被ることとなった。1880年代、鉄道線がクラスノヴォツクからアシュガバットまで引かれ、後にそれはタシケントまで延長された。都市領域は鉄道に沿って拡大し始めた。トランスカスピ海地域は基本的にはロシア植民地であったが、辺境のままであり続けた。ただし、英国植民地主義がこの地域に関心を示したとき、そしてトルクメン人による反乱の可能性があるときだけはロシアも注意を払った。

ソビエト・トルクメニスタン

 トルクメンは1917年にソヴィエト支配の到来に対して基本的に無関心であったため、それから数年間、この地域ではほとんど革命運動が起こらなかった。しかし、革命直前数年間、ロシア支配に対する散発的なトルクメン人の反乱が目立っていた。最も大規模な1916年の反ツァーリ反乱はトルクメニスタン全土に広がっていた。ソヴィエト支配に対する武力抵抗は、1920年代から1930年代前半にかけて中央アジア全体に広がったバスマチ(Basmachi)の反乱の一部であった。ソビエト史料はこの闘争を共和国の歴史の中ではごく簡単にしか記していないが、このときの反対はすさまじく、トルクメン人が多数亡くなっている。

 1924年10月、中央アジアが別々の政体に分割され、トランスカスピ海地域とトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国トルクメン州は、トルクメン・ソヴィエト社会主義共和国となった。ソヴィエトの最初数十年におよぶ強制的集産化その他の極端な社会経済的な変化の間に、牧畜遊牧民という生き方はトルクメニスタンにおいて経済的に選ぶことができなくなり、1930年代末までにトルクメニスタンの大多数は定住民となった。伝統的なトルクメン生活様式をむしばむソヴィエト国家による努力によって、家族や政治関係、宗教・文化的習慣、知的発展には大きな変化が生まれた。ロシアその他のスラブ人、主にカフカスからの様々な民族が大量に都市地域に移住してきた。控えめな産業的な開発が行なわれ、トルクメニスタンの天然資源の活用は限定的に始まった。

主権と独立

 1930年代初め、モスクワは共和国を強固な統制下に置いていた。ソ連共産党の民族政策によってトルクメンには政治エリートが育ち、ロシア化を進めることとなった。スラブ人はモスクワとトルクメニスタンで厳しく政府官僚の幹部を監督した。トルクメン指導部は忠実にソヴィエトの政策に従うのが常であった。モスクワはこの共和国におけるほぼすべての政治活動を掌握しており、1980年代半ばの汚職スキャンダルを除けば、トルクメニスタンは波風の立たないソヴィエト共和国であった。ミハイル・S・ゴルバチョフのグラスノスチとペレストロイカ政策は、トルクメニスタンには重要な影響を与えなかった。共和国は1991年以降のソ連崩壊と独立のための準備が整っていなかった。

 ソ連を構成していた他の共和国が1988年から1989年に主権を主張し始めたとき、トルクメニスタン指導部も、モスクワの経済政策・政治政策が搾取的でトルクメニスタンの幸福と尊厳に対して有害である、と批判し始めた。最高ソヴィエトの満場一致の議決で、トルクメニスタンは1990年8月に主権を宣言した。ゴルバチョフ政権に対する1991年8月のモスクワでのクーデター計画の後、トルクメニスタン共産党指導者サパルムラト・ニヤゾフは独立に関する国民投票を行なうこととした。国民投票の結果は独立を求める声が94%に達した。共和国最高ソヴィエトは、トルクメニスタンがソ連から独立すると宣言する以外に選択の余地はなくなり、1991年10月27日、トルクメニスタン共和国が成立した。

出典

  • Country Studies : Turkmenistan……アメリカ国会図書館連邦研究部が、合衆国陸軍省の後援で1986年から1998年にかけて発行した諸国研究・地域ハンドブックシリーズより。
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